今日は久しぶりに、思いつくままに書いてみようと思います。
普段から、たまに「TAKRAM RADIO」を聴いていますが、最近聴いたエピソードで、「短歌」という表現があることを改めて思い出しました。
そのエピソードは、「Vol.243 歩く時間、日記の時間〜詩とは自分のなかの真実を見つけること | TAKRAM RADIO」です。
そもそも、短歌という概念が自分の頭の中から消えてしまっていたこと自体が少し怖いですが、この機会に久しぶりに本屋で歌集を手に取ってみました。
選んだのは、伊藤紺さんの『気がする朝』です。
パラパラとめくって、心に響いた歌を何度も繰り返し読んでいました。こうして贅沢な時間を過ごしている自分を感じて、「大人っぽいな」とか「東京っぽいな」と、なんとなく思ったりしました。
特に気に入った歌が2つあります。
下心のあるやさしさだとしてもありがとうやさしくしてくれて(p.85)
叶わないことがたくさんあったって
別に不幸ではないと思った(p.106)
伊藤紺さんはラジオの中で、歌集がゴシック体であることにこだわっていると話していました。だから、実際に本を手に取って読んだときの感覚と、このブログ記事を読むときの感覚は、少し違うのかもしれません。
事前に聴いていたラジオの影響もあってか、作者が歌を通じて自分なりの真実を伝えようとしているのだろうな、とぼんやり考えながら読み進めていました。そんな読み方も、なかなかいいものです。
1つ目の歌は、ひらがなのなめらかな繋がりが美しく、共感できる部分も多かったです。また、一文の中に切ない気持ちが込められていて、それが面白いと感じました。
2つ目の歌は、一見普遍的なことを言っているようですが、作者が自分なりの発見を伝えようとしているように思えます。その思いが、自分の中でスッと腑に落ちる感覚がありました。
こうした歌集を読む時間を「贅沢」と感じる心を大切にしたいと思います。もっと日常の中で、こうした贅沢な時間を持てたらいいなと思います。たとえば、朝にゆっくりとコーヒーを淹れる時間のように、素敵な文章に触れる時間を大切にしたいものです。